私は仕事柄、「人工知能」とか「AI」というものを扱っていることになっている。ところが、私は「人工知能」や「AI」という言葉をほとんど会話の中で使わない。使うときも極めて選択的な文脈でしか使わない。この業界、こういう人は多いようだ。昨年、知り合いの主催するパネルディスカッションのテーマとして、「人工知能」という言葉についてどう思うかと言った議論を扱い、そこで普段言いたかったことを吐き出したのでこちらにも書いておきたい。 なぜ使わないかといえば、端的に言えば、人によってこの言葉の意味の捉え方が全く違うため、「言葉」として機能しないからだ。
「人工知能」という言葉をどういう文脈でみんな使っているだろうか。 ある人は、いわゆる汎用人工知能のことを指して、ある人は機械学習のことを指して、ある人はある種のデータ解析のことを指して「人工知能」と呼んでいるかもしれない。 またある人は最近はやっているらしい謎の技術と、またある人は人類を脅かす謎の技術と捉えているかもしれない。 たまにこのような言及を見る。人工知能というのは本来◯◯なものであって、☓☓などは到底人工知能とは言えない。 またある人からはこんなことを聞かれる。最近でた◯◯って人工知能っていえるんですかね?
人工知能とは何なのか、あるいは知能とは何なのか。こういう議論自体は楽しいものだ。みんなが、「知能」というものに対してどのように捉えているか、哲学的、神経科学的、工学的、いろんな視点の意見が出る。 「人工知能」という言葉が歴史的にどのように生まれたかという話は以下の本が詳しい。 タイトルに騙されるが、内容はコンピュータ科学の歴史と、その中での人工知能研究の位置づけである。 ちなみにこの本で語られるもともとの「人工知能」という言葉の位置づけは、実は私の想像していたものと違っていたという点でいえば、私も「誤用」していたことになる。
しかし、私としては、こうした話と、会話の中でこの単語を使うか使わないかは切り離している。 何故か。 よく「人工知能」の定義とは〜という話をされることがあるが、エラい人が言葉の正しい定義をして、それに従ってみんなが言葉を運用している、ということはまずない。 どちらかと言えば、なんとなくでみんなが新しい言葉を(あるいは新しい意味・意図で)使いだして、徐々に変容しながら運用される。 こういう姿のほうが、言葉の意味とは何かということに対する態度としては真実に近いと思っている。 正しい定義を追い求めたとしても、それが広く受け入れられて使われていなければ誰ともコミュニケーションを取れない。 つまり、人によって捉えている対象が違うと、その単語を使っても意思疎通の役に立たないのだ。 ある人が、りんごのことを「みかん」と呼んでいたとしたら、会話に非常に苦労するだろう。 人工知能という言葉は、残念ながら人によって何を意図してその単語を使っているかがよくわからない。 特にそれがコミュニケーションを阻害するレベルで違う。
私にとって興味があるのは、どのように名付けるかではなくて、どのような手段で何ができるようになるかということである。 作る側の立場からすると、具体的な手順と効果について知らなければ、価値を提供できない。しごく当たり前な話だ。 また、それを使う側にとっても、何ができるようになるのか、何が必要なのかがわからないことには使えない。 私は手法の良い点や悪い点、考えうる失敗のリスクを含めてなるべく正確に顧客に伝えることにしている。
とかく人は言葉に惑わされやすい。 「人工知能」という言葉は魅力的だ。 何といっても「知能」なんて言っているんだからすごいに違いない。 そう思いたい気持ちはわからなくはないが、かっこいい名前をつけたらたちどころに性能が良くなったり新しいことができるようになったら苦労はしない。 多くの人にとって「ビッグデータ」は大きくなかったし、「データサイエンス」はサイエンスではなかった。 今世の中で何をしていて、何ができているかをなるべく正確に知ること。 そしてもっと大事なのは、次に何が起こりそうで、何をすべきかをなるべく正確に予想して判断することだろう。 呼び名を変えてもできることは変わらない。 しかし、呼び名の印象で判断を誤るようであればその言葉は使わないほうがいい。
0 件のコメント:
コメントを投稿